大久野島(ウサギ島)に毒ガス資料館がある理由、戦時中の毒ガス製造の実態

広島県の忠海港から船で南に15分のところにHIKAKINさんが行ったことでも知名度の増したウサギ島と言われる大久野島があります。

行った事のある人は知っていると思いますが、多くの島には毒ガス資料館があり、毒ガス傷害死没者慰霊碑などがあることも有名です。

太平洋戦争時、この多くの島は毒ガス島として使われていたのです。

猛毒で皮膚がただれるイペリットをはじめ、赤筒と呼ばれるくしゃみ性のガス、他にもルイサイト
催涙ガスなどが製造されていたそうです。

こうした毒ガスを使用することは1925年のジュネーブ議定書で、国際的に禁止されていましたが、条文は使用を禁じるのみで、製造、研究の規則はなかったため、敵国が使用すれば報復もやむなし、との考えで研究を進める国も多かったようです。

日本でも毒ガスの研究は1918年のシベリア出兵以来続けられていて、1929年に毒ガス製造工場が大久野島に設置されました。

ただ、毒ガス工場の存在は機密事項として隠され、10年ほどの間は島の存在が隠されて、地図からも抹消されたのです。




大久野島に毒ガス工場が建てられた理由は機密として隠すためだけでなく、自然災害や不測事態が起こった場合のリスクヘッジになるから、という理由もあったようです。

大久野島であれば何か事故があってもその島だけの影響となるため被害の影響が少なく、本土からの距離が近いため、工場で働く人が通いやすいということです。

また、当時の住民たちは陸軍の化学兵器製造所とだけ聞かされていたため、毒ガスを製造していると知らなかったため、反対する声もあまりなかったようです。

それどころか、島の近くに暮らす住民たちにはいい働き口になるため歓迎する声も多かったとか。

ですが、労働者たちを待っていたのは毒ガス汚染と厳しい監視でした。

行員たちは工場で造っているのが毒ガスであると察しても、自由に辞めることは許されませんでした。

また、島でのことは秘密厳守だったため、島内でも対岸の町に戻っても憲兵が常駐して厳しい監視がついたのです。

そして工員たちは、おそらく毒ガスの影響によって健康が害され始めました。

目が赤くなる結膜炎や気管支炎や、皮膚が水泡だらけになる人が増えていったのです。




それでもこの時代ではお国のためなら、という人がいたそうです。

製造された毒ガスが使用されたのは工場の操業から1年後のことでした。

1930年に台湾中部で起きた日本による植民地政策の圧政に対して武力決起した事件で、日本軍はこれを鎮圧すべく毒ガス弾を投げ込み、1000人近い村人を殺害したとされています。

さらに1937年の日中戦争でも毒ガスを使用していたとされています。

実際には日本軍は毒ガスを1000回以上、被害者は6万人にもおよぶとされています。

そして、毒ガスの製造は戦争の激化とともに増加し、それに伴って工員の健康被害も増大していきました。

ついには工員のなかにも死者が出て、皮膚の色素沈着や呼吸困難など、あまりに苦しさに殺してほしい、と訴える工員もいたそうです。

その後、日本軍の毒ガス製造は中国が国際連盟に抗議して中止されました。

しかし、15年にわたり毒ガスを製造してきた大久野島は、植物もろくに育たないような土壌となり、工員たちも後遺症に苦しむ有様でした。

日本軍はその事実を隠すため、関係書類やカルテや写真を焼却して隠蔽を図りましたが、
1984年に朝日新聞が化学戦実施に関する報道をし、毒ガス製造と使用の事実がわかってきました。




コメント

タイトルとURLをコピーしました